2017年05月21日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より B

2.精神の鏡



 初期の段階では初心者は意識がどのように働くかを理解することが不可欠である。これは意識を鏡とみなすことにより単純に説明することができる。この鏡にはあらゆる物質レベルの思考、感覚、痛み、そして五感から起こる経験が投影されている。生きている間その鏡はある印象、心像、記憶からの想起等あれやこれやから決して自由になることがない。人が「見た」とか「聞いた」とき、それは目や耳が見聞きするのではない。それらの器官は波長の放射や刺激を受容し、神経組織を通して脳に伝えられ、そこで意識の鏡に投影される認識できる経験として「翻訳」されるのだ。聞くという行為において音刺激は、言葉や理解している意味へどう解釈するかという知識の力により、その意味するものが知的な理解へと変わる。
 「精神の鏡」という表現は本項を通して頻繁に用いられるので、読者はその働きを明確に理解することが重要である。
 私たちは通常の精神を通した肉体的知覚に加え、霊的精神を有している。これは霊的始原からの心像や経験、印象の受け取りに関わっている。精神の鏡は物的経験によって占められていないときに、それら霊的経験を受け取れるのだ。
 意識はまったく別の思念の印象を同時に保持することができない。それゆえ霊能養成中の霊媒は精神の鏡から物的思念をクリーンにするやり方を学び、霊の思念と印象を受け取れるようにする必要があるのだ。物的対象についての思念はその鏡に映像のように描写される。たとえばあなたが目を閉じて鉛筆のようなありふれた物体を思い浮かべたとすれば、それは本人が抱いているような性質を持った映像として鏡に投影される。仮にその鉛筆はシャープペンシルだと修正をうけたならば、その映像は普通の木製のものから銀色の自動送りのものへと変わる。もしその人がシャープペンシルがどのような形のものか知らなかったなら、彼は鏡にいかなる映像も映すことはできない。このようにしてもし指導霊が鉛筆という想念を伝えようとすれば、その鏡はある特徴を持った鉛筆の像を映し出すのだ。
 指導霊が「母親」という思念を伝える場合が他の例になるかもしれない。鏡は思い出したり描写されたりした一般的な母親像のうち、その人が自然に思い浮かべるものを映し出すのだ。この点については霊視を考える際に詳細に取り扱う。当面の目的は通信霊から「見たり」「聞いたり」する方法の概略を述べることである。
 このように私たちは肉体的精神が霊的精神と密接な調和をとって働くこと、そして共に意識の鏡という共通の出会いの場を持っていることを認める。
 同様のプロセスはインスピレーション談話、入神談話にも当てはまる。その場合指導霊は一連の思念を霊的精神を通して鏡面上に伝達し、そこで霊媒の使用言語や知識に従ってその思念を表現するため言語に置き換えられる。もし彼が語彙が豊富ならば、霊からの思念は語彙の貧弱な者よりうまく表現される。霊媒の精神は素養があるほど霊能の表現は良いものとなる。
 したがって初心者への初期の指導としては、指導霊からの思念の印象を受け取るわざを、調和・親和性を得る能力を伸ばすことによって磨くことであり、その方法は以降の項において述べる。


ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より A

1.霊的潜在能力



 まず最初に霊能を望む者は霊媒能力の意味するところの正しい理解を持つことが不可欠で、人間が持つ霊的潜在能力の初歩的理解が必要である。
 物的霊現象etcに関連するような非常にまれないくつかの霊能のケースを除き、霊能とは指導霊により霊媒の意識と精神的属性を通して使用・表現されるものである。
 物事の自覚や、五感を通し記録された観念の連合を思考として受け取るのが意識である。思考は個人的知識や経験の源からもまた生じる。それはひとつの断片的知識を他のものと関連させることができ、結論へと到達することができる。同様にして意識は霊的情報源からも思考や印象を受け取ることができるのだ。


ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より @

イントロダクション



 霊能(霊媒能力)を熱望する人々に与える、霊の賜物を発達させられるための方法についてのアドバイスはなんであれ明確にシンプルに示されるべきである。
 霊媒になるためには学識が深い必要もなければ心霊科学に通暁している必要もない。過去には素朴な庶民が傑出した霊媒やヒーラーになった例はいくらでもある。
 数多くの人々が霊媒になれたらと願う―霊の姿を見、話す声を聞き、助言を得、遺族を慰め、必要としている者に助言をして助けるためである。だがこのような望みはしばしば単に、人と違う人間でありたいとか、尊敬されたいとか、神秘的な雰囲気をまといたいというような個人的エゴの満足でしかないことがある。これは霊能へのアプローチとしては完全に道を違えたものだ。
 霊能にはひとつの目的がある。それは人間に自らはただ肉体のみの存在ではなく霊でもあり、そして地上人生というものは、肉体の終わりと共に始まるより大きな満ち足りた生活のための「年季奉公」であることを示すことなのだ。その知識を通して人類はより啓発された規範に従って生きようという刺激を受け、その実行により戦争、貧困、その他の現代における下劣な趨勢は不法とされるだろう。そうでもなければ霊界において向上した教師、哲学者、医師、その他が多大な労苦を払ってまで人間側の道具をすべての魂の進歩のために用いる理由は見出せないのだ。
 それゆえ霊能を得ようと熱望する者は、心底から気高い目的に使われることを希求すべきで、霊能を求めるのは人助けのための手段だとみなすべきなのだ。それは利己性の否定と、自らを霊的な目的に捧げることでなければならない。真の霊媒はそれによって神聖な善き計画の一端の担い手となる。霊能は民族や宗教や人種には左右されないし、いかなる霊媒も帰属宗教が定める遵守事項を続けられない理由もなければ、その霊能を帰属宗教のために組み入れられない理由もない。
 過去において霊能はさまざまな種類のものが存在していたが、それらもまた霊の指導による知識と理解のもと進歩しているのだ。それは攻撃、嘲笑、妨害に耐えて生き続け、今日では尊敬され、科学者、宗教指導者、新聞・雑誌、そして英国の法律によっても認められている。
 どのような形態の霊能も厳格に心霊科学に適っているのだが、それらは分析することも物的基準で評価することもできない。顕微鏡での観察の対象にはならないのだ。霊能を十分に理解する能力が私たちにないばかりに、それは神秘的なベールに包まれており、ときに疑わしい方法や意見が生まれてくる。
 現在スピリチュアリストチャーチやホームサークルで霊能養成クラスが数多く開かれている。それらを指導している霊媒は誠実で善良な人々なのだが、霊媒能力の本質が何かをつかめていないために因習的なやり方が少なからず生まれた。それらは霊媒から霊媒へと模倣的に受け継がれ、あたかも真実であるかのように受け入れられるようになった―実際は誤りであるかもしれないのにである。後項でそれらの方法に言及し、なぜもうこれ以上採用されるべきではないかの理由を述べることにする。 
 神経過敏であったり恐れを抱く者は霊能の発達を試みるべきではない。霊能には強固な精神が必要で、目的を持った自己訓練ができなければならない。肉体的欠陥や苦悩が霊能の発達を阻害してはいけないが、重ねて強調するが、霊能の発達を切望するものは誰であれ健全な精神を有し、バランスの取れた判断がとれ、そして自己訓練を自らに課すことができるべきである(最後の資質が最重要)。
 本書では霊能養成を望む者は霊の人々とのコミュニケーションの基礎的原理を読むことになる。そのため霊の賜物の発達が熟考した上でのプロセスとして進むかもしれない。