2017年06月25日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より H

波長




 これは心霊サークルではよく使われる言葉だ―たとえば「指導霊がある波長でやって来ましたね」のように。それゆえ「波長の混線」等もあるのだ。この言葉はしばしばあいまいに、ときにちゃんとした理由もなく用いられている。
 すべての物質は固有の振動もしくは放射をしていることを私たちは知っている。そしてこれは「思念」にも同様に当てはまるのだ。放射物を受信するときは送信機と受信機との間に調和もしくは伝達しやすさがなければならないことは自明の理だ。トランス状態や直感による霊能では指導霊から霊媒の精神へ受け取られるのは、放射・伝達された思念なのである。ここでは「波長」のみが問題となる。異なる思念が異なる波長を生み出しうるのは事実で、もしそれらが意識の鏡に同時に影響を及ぼすなら混乱が生まれるのだ。このことは二人に同時に話しかけられたら聞き手はそのどちらも把握できないたとえで理解されるだろう。初心者が指導霊の通信を求める際は招いた指導霊の思念の力に満足すべきであり、他にはあるべきでない。誰の精神も二つのことを同時に深く考えることはできないのだから、霊媒が二人の霊からの異なる思念を同時に受け取ることは不可能である。
 そのようなわけで心霊サークルの会話では「波長の混線」についての会話があるが、出席しているシッターが原因となってそれが起こる可能性は、あり得るかという観点から見ればまずない。このありえなさは、人が思念により他者に影響を及ぼすことがいかに難しいかを考えれば納得できる。考えの違う誰か二人がいれば波長の混線は生まれると言えるのかもしれないが、これには特段危険はなく、むしろ自分なりの意見を持つことは私たちの権利であり、さもなくば私たちはロボットと同じになってしまう―しかしそうではないのだ。
 初心者が霊能養成サークルで座り始めたときは、彼はリーダーの与える指示に従い、その精神はサークルの皆がすることに染まるべきである。そうすれば波長の混線は起こりようがない。シッターがリーダーの指示や方法を受け入れられない場合にはそのサークルから身を引くべきである。
 このようにしてすべてのシッターとリーダー間には幸せな調和と完全な協調状態があるべきである。シッターやリーダーに関する、また他の物事についてのいかなる個人的意見も精神から締め出すべきだ。いかなる養成サークルにおいても最終的な成功はその満足如何にかかっている。



2017年06月18日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より G

自己訓練




 霊媒は常に自らを律しなくてはならないことは大変重要である。彼は定時にのみ養成のため座るべきだ。もしそれ以外のときに指導霊の存在を感じてもそれに押し流されてはいけない。心の中で「今はダメです」「私がお呼びするときに」と指示を送るべきである。そしてすぐ思考を他に転換し別のことに専心すべきだ。
 初期には熱心さのあまり養成サークルで指導霊の存在が感じられ始めると、もっと迅速に発達したいと望むのは初心者には無理もないことだ。しかしゆっくり漸進的に発達するのがベストであり、養成サークルのリーダーの指導下外においてコントロールされたりトランス状態になったりするいかなる刺激も決して与えられるべきではない。
 したがってそのルールは厳守されるべきであり、彼が霊媒としての活動を行なうに際してまず最初に指導霊を招待する思念が送られなければならないのだ。
 これはとりわけ自動書記(少し後に扱う)に当てはまる。ときに初心者が休んでいて精神が寛いでいると書きたいという欲求が起きるが、これはこらえなければならない。そうでないとその行為は霊媒の行動の自由を侵食し、彼は必要以上にそれにのめりこんでしまう。
 霊媒はとりわけ初期においては、霊媒能力が本人と周囲の人にとって有害なものにならぬよう、確固たる行動習慣を築き上げ、自分の行動の手綱は自分が握らなければならないことは、口酸っぱく言う価値がある。
 一般的に養成サークルは週に一度開かれ、指導霊と明確な接触を持つのはこのときのみであるべきだ。この機会は楽しみにし、静かな情熱を抱きつつ心待ちにすべきだが、その機会のみに限定されるべきである。
 もちろん指導霊はできるかぎりのやり方で良き影響を与え、保護するために常に霊媒と共にあるのだが、それらの助けは霊媒が指導霊の存在を感じる必要がないままで与えることができる。
 ある養成サークルではさまざまな準備や制約がアドバイスされることが知られている。あるところではシッターは座る前に絶食すべきとか、衣類は上から下まで新品を身に着けるべきとか、ゴムはシッターと指導霊の同調を邪魔するのでゴム底靴は厳禁とか、シッターは腕組みをしてはならず、両腕を前に伸ばして祈願する態度で手のひらを上に向けることで「パワー」を受け取るetc...が提唱されている。
 霊媒能力は指導霊により霊媒の精神的機能が用いられることで生まれることを思い起こせば、それらの遵奉に疑問を抱く人もいるかもしれない。たとえばシッターがゆとりをもち快適であることは良いことだが、空腹でなければもっとそうなれる。逆に事前の胃もたれする食事は避けるべきだ。
 これらを言っておきながら、またさらに述べるつもりでなんだが、シッターがそうした制約的アドバイスetc...をする養成サークルに満足して参加しているかぎりは、それらを受け入れ、サークルの調和を壊す異を唱えるべきではない。もしサークルの進め方が合わない等を感じるならば、十分な気遣いをして去るのがベストである。
 東洋において養成方法は苦行、継続的修行、断食、また単調な詠唱を延々と続けるといった、肉体を服従させて不活発な状態に持っていくもので、それらは肉体を弱体化させることで精神が抵抗する力を殺ぐという目的を持っている。「鏡」の比喩を用いるなら、その目的は通常意識を完全に疲労させることで霊の心像を映るようにするのだ。幸いにもこれは現代もしくは西洋の、心霊科学のきちんとした理解の基板上に築かれたより進化した方法にはそれらは無用である。
 私たちの方法はシッターが円満で快適であることが最善であるという考えをとっている。それにより彼はいっそうたやすく精神をリラックスし解放させられ、意識に指導霊の影響力を自然な通常のありかたで到達することを可能にするのだ。
 ゴム底靴を履いても指導霊との同調が阻害されることはない。悪影響を及ぼすというその考えは、ある人々の持つ「アース」をすることが必要という誤った印象から生まれている。なぜなら霊能養成は磁気の分極化の理論の流れを受けて起こったからである。そのためもしゴム底靴を履かないなら磁気的接触はより容易になるというわけなのだ。もしこれを、指導霊との接触は精神的なものであるという私たちの根本的仮定に照らして思い巡らすなら、磁気力(物質的な力)は何の影響力も持たない。いかなる場合でも霊力の放射はあらゆる物質に浸透できるのは明らかなのだから、ゴムが電気を絶縁するからといって非物質的な霊力も絶縁するというのは見当違いだ。
 腕組みに対するアドバイスは単に、「自分のうちに閉じこもる」状態を作ってしまえば接触が築かれるのを阻害するという心理的な理由があるだけだ。常識的に考えれば、それは心理的な価値はあるかもしれないが、体や腕や手の位置が同調を妨げるとは思えない。



2017年06月11日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より F

肉体的精神と霊的精神の近さ




 自分の思考と霊からの思考を判別するのは初期においては大変難しい。それはとてもデリケートで、判別の調節具合が移ろいやすいのだ。その理由は意識は「鏡」が映しだすものには、自ら生んだものものであれ霊から発せられるものであれ、何にせよ敏感だからである。互いは混じり合えるのだが、一方が他方に対し優勢になることができ、たぶんおそらくは最初は物的精神が優位を占めるだろう。たとえばもし鏡が霊から心像を受け取り、それを顕在意識が認めると、自然に顕在意識は「一体これは何だ?」と疑問を発し始めるのだ。
 この不確実さは養成中の霊媒に最初の困難をもたらすが、それが確かに霊的通信だと判断できるいくつかの決め手がある。霊から受け取る心像は非常に鮮明で意識に強烈な印象を与えるためいつでも容易に再現することができるのだ。これは次のように比較できるかもしれない。日常のありふれたもの、たとえばマッチ箱を思い浮かべてみよう。それを霊からの心像と較べると鮮明さにおいて足元にも及ばない。さらに霊からの心像は永続的で瞬時に思い出すことができるのに対し、マッチ箱の姿形を思い描くのは意識的な努力を要する。
 霊的始原から思念を受け取ったときはコンピューターである脳が自動的にそれを言葉に転換し、どうしても話したいという衝動を覚えるだろう。シッターは口をつぐんでいることもできるのだが、それには一苦労だし、話したいという欲求の背後にある促しはかなりのものだろうから、彼はこの思念は自分が生み出したものではないと悟るだろう。これと通常の思考を思い巡らすことの間にはたいてい大きな懸隔があるので、シッターはその発せられた源について疑いを抱くことはないだろう。
 ときおり霊能を得ようとする人は、霊媒と会話したりその霊能を見たりすることから、霊の通信を受け取るにはある種の感覚的な準備や鋭敏さを必要とするのではないかと推測するかもしれない。だがおそらくそれは真実から逸れた見方だ。霊の通信とは、霊との同調の結果として生じる自然で単純な行為なのだ。
 すべての霊媒、特に霊視および霊聴能力者は、霊から通信を受け取るにはまず彼らの精神を受動的な明け渡した状態に置く必要があることを知っている。言い方を変えれば、彼らはやって来る心像や音を反映させるために、精神の鏡から世俗的な考えを消し去る必要があるのだ。
 このことの別な例は、誰かが不意に霊感を受けたり心像を見たりする場合がある。それはまったく思いもよらず、当人の精神が「何も考えていない」ときに起きるのだが、それは単に精神の鏡がその瞬間、やってくる霊の印象を受け取れるだけクリアであることを意味している。




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