2017年06月11日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より F

肉体的精神と霊的精神の近さ




 自分の思考と霊からの思考を判別するのは初期においては大変難しい。それはとてもデリケートで、判別の調節具合が移ろいやすいのだ。その理由は意識は「鏡」が映しだすものには、自ら生んだものものであれ霊から発せられるものであれ、何にせよ敏感だからである。互いは混じり合えるのだが、一方が他方に対し優勢になることができ、たぶんおそらくは最初は物的精神が優位を占めるだろう。たとえばもし鏡が霊から心像を受け取り、それを顕在意識が認めると、自然に顕在意識は「一体これは何だ?」と疑問を発し始めるのだ。
 この不確実さは養成中の霊媒に最初の困難をもたらすが、それが確かに霊的通信だと判断できるいくつかの決め手がある。霊から受け取る心像は非常に鮮明で意識に強烈な印象を与えるためいつでも容易に再現することができるのだ。これは次のように比較できるかもしれない。日常のありふれたもの、たとえばマッチ箱を思い浮かべてみよう。それを霊からの心像と較べると鮮明さにおいて足元にも及ばない。さらに霊からの心像は永続的で瞬時に思い出すことができるのに対し、マッチ箱の姿形を思い描くのは意識的な努力を要する。
 霊的始原から思念を受け取ったときはコンピューターである脳が自動的にそれを言葉に転換し、どうしても話したいという衝動を覚えるだろう。シッターは口をつぐんでいることもできるのだが、それには一苦労だし、話したいという欲求の背後にある促しはかなりのものだろうから、彼はこの思念は自分が生み出したものではないと悟るだろう。これと通常の思考を思い巡らすことの間にはたいてい大きな懸隔があるので、シッターはその発せられた源について疑いを抱くことはないだろう。
 ときおり霊能を得ようとする人は、霊媒と会話したりその霊能を見たりすることから、霊の通信を受け取るにはある種の感覚的な準備や鋭敏さを必要とするのではないかと推測するかもしれない。だがおそらくそれは真実から逸れた見方だ。霊の通信とは、霊との同調の結果として生じる自然で単純な行為なのだ。
 すべての霊媒、特に霊視および霊聴能力者は、霊から通信を受け取るにはまず彼らの精神を受動的な明け渡した状態に置く必要があることを知っている。言い方を変えれば、彼らはやって来る心像や音を反映させるために、精神の鏡から世俗的な考えを消し去る必要があるのだ。
 このことの別な例は、誰かが不意に霊感を受けたり心像を見たりする場合がある。それはまったく思いもよらず、当人の精神が「何も考えていない」ときに起きるのだが、それは単に精神の鏡がその瞬間、やってくる霊の印象を受け取れるだけクリアであることを意味している。