2014年08月21日

ルソー「エミール」よりC

 当然のことながら自信のないわたしが、神にもとめる、というよりも神の正義に期待する、ただ一つのことは、わたしが過ちをおかしたばあい、そして、その過ちがわたしにとって危険であるばあいに、わたしの過ちを正してくれることだ。誠実だからといって自分はぜったいに過ちにおちいることはないなどとわたしは考えていない。わたしにはこのうえなく事実であると思われる見解もみんな虚偽であるかもしれないのだ。自分の見解に執着しない人間があるだろうか。また、あらゆることで同じ意見をもっている人間が何人いるだろう。わたしをだます幻想がわたしたちから生まれてくるとしてもしかたがない。神だけがわたしたちをそこから解放することができる。わたしは真理に到達するためにできるだけのことをした。しかし真理の源はあまりにも高いところにある。もっと遠くへ行く力はわたしにはないとしたら、わたしにどんな罪があることになるのか。真理のほうで近くにきてくれなければならないのだ。

岩波文庫「エミール(中)」p.180-181
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2014年08月20日

ルソー「エミール」よりB


 
 魂は非物質的なものであるなら、それは肉体が滅びたあとにも生き残ることになるし、魂は肉体の滅びたあとにも生き残るものなら、摂理の正しさが証明される。魂の非物質性ということについては、この世における悪人の勝利と正しい人の迫害ということのほかにわたしは証拠をもたないとしたところで、それだけでもわたしは疑いをもつ気にはなれないだろう。宇宙の調和のうちに見られるそういう腹立たしい不調和は、わたしにその説明を求めさせるだろう。わたしたちにとってはすべては現世とともに終わるのではない、死によってすべては再び秩序を回復するのだ、と。正直のところ、人間が感じていたものがすべて失われるとき、人間はどこにいることになるのかと考えてわたしは当惑するだろう。しかし、この問題も、二つの実体をみとめたわたしには、むずかしいことではなくなる。わたしは肉体的な生活をしているあいだ、感官によらなければなにもみとめられないのだから、感官の力のおよばないものはわたしにはとらえられないというのはごくあたりまえのことだ。肉体と魂の結合が破れるとき、肉体は分解し、魂は保存されるとわたしは考える。肉体の破壊が魂の破壊をもたらすようなことがどうしてありえよう。そんなことはない、この二つのものはまったく違った性質のもので、その結合によって耐えがたい状態にあったのだ。だから、その結合が破れると、二つともその自然の状態に帰る。能動的で生きている実体は、受動的で死んだ実体を動かすのにもちいていた力を全面的に回復するのだ。ああ、悲しいことに、わたしは自分の不徳によって十二分に感じている、人間は生きている間は、半分しか生きていないこと、そして魂の生活は肉体の死をまってはじまることを。
 
 しかし、魂の生活とはどういうものか。また、魂はその本性からいって不滅なのだろうか。わたしの限られた悟性は限界のないものをぜんぜん考えることができない。無限と呼ばれるものはすべてわたしにはとらえられないのだ。わたしはなにを否定したり、肯定したりできよう。わたしに考えられないものについてどんな推論を行なうことができよう。わたしは、魂は肉体のあとに生き残ることによって秩序が維持されるものと信じている。しかしこれは魂がいつまでも生きているということになるかどうかだれが知っていよう。それにしてもわたしは、どんなふうに肉体がつかいはたされていき、その部分の分解によって破壊されていくかを理解している。ところがわたしには、考える存在についてはそれと同じような破壊作用を理解することはできない。そして、そういう存在がどんなふうに死んでいくか思いつかないわたしは、それは死なないのだと推測する。この推測はわたしをなぐさめてくれるし、そこにはなにも不条理なことはないのだから、どうしてわたしはそれを信じることを恐れよう。

岩波文庫「エミール(中)」p.156-157
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2014年08月18日

ルソー「エミール」よりA

「わたしが関心を持つのは、そして私と同じようなすべての人間が関心をもつのは、人間の運命を支配するある者が存在すること、わたしたちはすべてその子どもであること、かれはわたしたちすべてに、正しい人になるように、たがいに愛し合うように、善行を好み慈悲深くあるように、あらゆる人に、わたしたちの敵、かれの敵にたいしてさえ約束をまもるように、命じていること、この世の表面的な幸福は無意味であること、この世の生活のあとに別の生活があって、そこで至高の存在者は善人にむくい、悪人を裁く者になること、こういうことをすべての人が知ることだ。」


「これを越えて、特殊な見解にわたしたちを服従させるような者は、反対の道から同じ地点にやってくる。かれは自己流に秩序をうちたてようとして、平和をみだし、身のほども知らない思い上がりから、神意の解釈者になって、神の名において人々の臣従と尊敬を要求し、神にかわって神となるようなことさえしかねない。そういう人間は、不寛容な人間として罰せられないばあいにも、神を冒涜する人間として罰するべきだろう。」


「自分はいつも神に見守られていると感じるように、神を自分の行動、考え、徳性、楽しみの証人とするように、神はよいことを好まれるのだから、人が見てくれなくてもよいことをするように、苦しみはいずれ神がつぐなってくださるのだから、不平を言わず耐え忍ぶように、さらに、生涯のいかなる日においても、やがて神の前にあらわれるとき、かえりみて満足できるような者として生きるように、少女たちをしつけるがいい。これこそほんとうの宗教だ。過ちにも、不敬虔にも、狂信にもおちいることのないただ一つの宗教だ。もっと崇高な宗教を説きたい人は、いくらでも説くがいい。わたしとしては、右のようなことのほかには宗教をみとめない。」

岩波文庫「エミール(下)」p.58-59
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