2017年07月02日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より I

指導霊





 霊界には私たちが地上にいるあいだ補助し指導する任務の者がいる。彼らは善き意図を持ち高潔な性格をしている。指導霊が「類は友を呼ぶ」というような、共通の絆を持つ人間に引き付けられる状況にはおそらく様々な真相がある。たとえば音楽に大変喜びを感じる指導霊は生まれつきハーモニーの鑑賞力がある者に付こうと探し求める。霊界の看護師や医師は潜在的にヒーリングの賜物を持つ者に影響を与えようと努力する。他には祈りの指導の目的を持つ霊、科学的アプローチをする霊など、指導霊が付く個人には共通の関心事が一般的に見られる。
 指導霊は愛すべき性格の忍耐強い方々だが、ときに人々への影響力を行使しうるあらゆる機会を探し求めようとするかもしれない。だからこそ自己訓練に関することがきわめて大事だと強調されているのだ―指導霊が招かれた時だけ霊媒の生活過程に緊密に引き付けられるべきことを知る必要があるためである。
 霊媒が指導霊との同調の図りかたおよび指導霊に用いられることに従うことを学ばなければならないように、指導霊もいつどのようにして彼の霊媒を使うかを学ぶ必要があることは思い出されるべきだ。
 霊媒が自分が使われることを期待しているように、おそらく指導霊は彼の霊媒を使うことに満足しているだろう。このつながりにおいて優勢な要素は霊媒の精神である(指導霊に用いられるのは霊媒の顕在および潜在意識の属性であることが思い起こされる)。それゆえもし初心者がだぶん知識の欠如したリーダーシップや真似事を通すことにより、彼の指導霊はくだけた英語で話すべきだと(先に述べた例のように)感じているならば、その指導霊は目的の手段としてとにかく用いるために、その弱点を受忍しているのだ。
 純粋な形の霊媒現象は、指導霊が霊媒の第二の性質のようになり、まったくトランスに入ることなく霊媒の意識の鏡に思念を直感的に投影できることが望ましい。
 よくある主張に「指導霊は私をガッカリさせないでしょう」というものがある。これはもちろんまったくその通りだが、私たちは彼らに能力以上の責任を押し付けるべきではない。全能な指導霊はいない。私たちと同じ人間である彼らは人材を操作できるだけなのだ。指導霊は私たちの抱く問題を理解する力の限りにおいて善き影響力や思念の指示を与え、善き目標へと導くことができる。私たちは指導霊に、バナナの皮で滑るのを防いでほしい、びっしょり濡れていながら風邪をひかないようにしてほしい、サッカーくじを当ててほしい、住む家を見つけてほしい、お客を自分の店に連れてきてほしいといったことを期待すべきではない。
 初心者は「指導霊崇拝」や「私の指導霊があれやこれを言っている」などは避けるべきだ。彼らをありのままに見てみよう。素晴らしい人格を有し、私たちより英知において進歩しているが、私たちと同じ制約がある。霊媒現象において最大の制約は私たち自身なのだ。私たちは原因と結果の法則に則っており、指導霊もこれを変えることはできない。指導霊ははるか先の物的未来について予見することはできない。しかし彼らは私たちの精神に影響を与え、思念の指示を与え、鼓舞し、内心の決意の強さを与えることができる。ときに彼らは差し迫った危険を予知し回避を手助けすることができる。病気による具合の悪さを乗り越えたり、長所を伸ばすのを援助することができる。私たちは彼らを、愛情と確信を持って、心の広い兄弟姉妹と考えることができるが、これを念頭に置きつつ、私たちはその職分外の役目を指導霊に求めることは避けるべきである。



2017年06月25日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より H

波長




 これは心霊サークルではよく使われる言葉だ―たとえば「指導霊がある波長でやって来ましたね」のように。それゆえ「波長の混線」等もあるのだ。この言葉はしばしばあいまいに、ときにちゃんとした理由もなく用いられている。
 すべての物質は固有の振動もしくは放射をしていることを私たちは知っている。そしてこれは「思念」にも同様に当てはまるのだ。放射物を受信するときは送信機と受信機との間に調和もしくは伝達しやすさがなければならないことは自明の理だ。トランス状態や直感による霊能では指導霊から霊媒の精神へ受け取られるのは、放射・伝達された思念なのである。ここでは「波長」のみが問題となる。異なる思念が異なる波長を生み出しうるのは事実で、もしそれらが意識の鏡に同時に影響を及ぼすなら混乱が生まれるのだ。このことは二人に同時に話しかけられたら聞き手はそのどちらも把握できないたとえで理解されるだろう。初心者が指導霊の通信を求める際は招いた指導霊の思念の力に満足すべきであり、他にはあるべきでない。誰の精神も二つのことを同時に深く考えることはできないのだから、霊媒が二人の霊からの異なる思念を同時に受け取ることは不可能である。
 そのようなわけで心霊サークルの会話では「波長の混線」のついての会話があるが、出席しているシッターが原因となってそれが起こる可能性は、あり得るかという観点から見ればまずない。このありえなさは、人が思念により他者に影響を及ぼすことがいかに難しいかを考えれば納得できる。考えの違う誰か二人がいれば波長の混線は生まれると言えるのかもしれないが、これには特段危険はなく、むしろ自分なりの意見を持つことは私たちの権利であり、さもなくば私たちはロボットと同じになってしまう―しかしそうではないのだ。
 初心者が霊能養成サークルで座り始めたときは、彼はリーダーの与える指示に従い、その精神はサークルの皆がすることに染まるべきである。そうすれば波長の混線は起こりようがない。シッターがリーダーの指示や方法を受け入れられない場合にはそのサークルから身を引くべきである。
 このようにしてすべてのシッターとリーダー間には幸せな調和と完全な協調状態があるべきである。シッターやリーダーに関する、また他の物事についてのいかなる個人的意見も精神から締め出すべきだ。いかなる養成サークルにおいても最終的な成功はその満足如何にかかっている。



2017年06月18日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より G

自己訓練




 霊媒は常に自らを律しなくてはならないことは大変重要である。彼は定時にのみ養成のため座るべきだ。もしそれ以外のときに指導霊の存在を感じてもそれに押し流されてはいけない。心の中で「今はダメです」「私がお呼びするときに」と指示を送るべきである。そしてすぐ思考を他に転換し別のことに専心すべきだ。
 初期には熱心さのあまり養成サークルで指導霊の存在が感じられ始めると、もっと迅速に発達したいと望むのは初心者には無理もないことだ。しかしゆっくり漸進的に発達するのがベストであり、養成サークルのリーダーの指導下外においてコントロールされたりトランス状態になったりするいかなる刺激も決して与えられるべきではない。
 したがってそのルールは厳守されるべきであり、彼が霊媒としての活動を行なうに際してまず最初に指導霊を招待する思念が送られなければならないのだ。
 これはとりわけ自動書記(少し後に扱う)に当てはまる。ときに初心者が休んでいて精神が寛いでいると書きたいという欲求が起きるが、これはこらえなければならない。そうでないとその行為は霊媒の行動の自由を侵食し、彼は必要以上にそれにのめりこんでしまう。
 霊媒はとりわけ初期においては、霊媒能力が本人と周囲の人にとって有害なものにならぬよう、確固たる行動習慣を築き上げ、自分の行動の手綱は自分が握らなければならないことは、口酸っぱく言う価値がある。
 一般的に養成サークルは週に一度開かれ、指導霊と明確な接触を持つのはこのときのみであるべきだ。この機会は楽しみにし、静かな情熱を抱きつつ心待ちにすべきだが、その機会のみに限定されるべきである。
 もちろん指導霊はできるかぎりのやり方で良き影響を与え、保護するために常に霊媒と共にあるのだが、それらの助けは霊媒が指導霊の存在を感じる必要がないままで与えることができる。
 ある養成サークルではさまざまな準備や制約がアドバイスされることが知られている。あるところではシッターは座る前に絶食すべきとか、衣類は上から下まで新品を身に着けるべきとか、ゴムはシッターと指導霊の同調を邪魔するのでゴム底靴は厳禁とか、シッターは腕組みをしてはならず、両腕を前に伸ばして祈願する態度で手のひらを上に向けることで「パワー」を受け取るetc...が提唱されている。
 霊媒能力は指導霊により霊媒の精神的機能が用いられることで生まれることを思い起こせば、それらの遵奉に疑問を抱く人もいるかもしれない。たとえばシッターがゆとりをもち快適であることは良いことだが、空腹でなければもっとそうなれる。逆に事前の胃もたれする食事は避けるべきだ。
 これらを言っておきながら、またさらに述べるつもりでなんだが、シッターがそうした制約的アドバイスetc...をする養成サークルに満足して参加しているかぎりは、それらを受け入れ、サークルの調和を壊す異を唱えるべきではない。もしサークルの進め方が合わない等を感じるならば、十分な気遣いをして去るのがベストである。
 東洋において養成方法は苦行、継続的修行、断食、また単調な詠唱を延々と続けるといった、肉体を服従させて不活発な状態に持っていくもので、それらは肉体を弱体化させることで精神が抵抗する力を殺ぐという目的を持っている。「鏡」の比喩を用いるなら、その目的は通常意識を完全に疲労させることで霊の心像を映るようにするのだ。幸いにもこれは現代もしくは西洋の、心霊科学のきちんとした理解の基板上に築かれたより進化した方法にはそれらは無用である。
 私たちの方法はシッターが円満で快適であることが最善であるという考えをとっている。それにより彼はいっそうたやすく精神をリラックスし解放させられ、意識に指導霊の影響力を自然な通常のありかたで到達することを可能にするのだ。
 ゴム底靴を履いても指導霊との同調が阻害されることはない。悪影響を及ぼすというその考えは、ある人々の持つ「アース」をすることが必要という誤った印象から生まれている。なぜなら霊能養成は磁気の分極化の理論の流れを受けて起こったからである。そのためもしゴム底靴を履かないなら磁気的接触はより容易になるというわけなのだ。もしこれを、指導霊との接触は精神的なものであるという私たちの根本的仮定に照らして思い巡らすなら、磁気力(物質的な力)は何の影響力も持たない。いかなる場合でも霊力の放射はあらゆる物質に浸透できるのは明らかなのだから、ゴムが電気を絶縁するからといって非物質的な霊力も絶縁するというのは見当違いだ。
 腕組みに対するアドバイスは単に、「自分のうちに閉じこもる」状態を作ってしまえば接触が築かれるのを阻害するという心理的な理由があるだけだ。常識的に考えれば、それは心理的な価値はあるかもしれないが、体や腕や手の位置が同調を妨げるとは思えない。