2017年06月04日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より D

空白の精神




 きわめて多くの初心者は彼らの精神が「空白」(無意識の状態)になるように、そして大多数のシッターはこの状態になることを期待する。この「空白」が意識ある状態に取って替わるまで先に進もうとしない人もいる。この点をはっきりさせよう。精神が「空白」になることはまず不可能である。この状態を意識的に生み出せる者は誰もいない。私たちに意識がある以上、精神の鏡は何らかのありかたで映し出されているはずなのだ。睡眠時でさえ私たちの精神は100%無活動ではなく、音や肉体的刺激に気付く。精神の鏡は決して空白にはならない―麻酔下においてさえ精神は機能している。夢は精神の活動の結果だ。夢では心像が鏡にときに不条理な形で投影され、思念が自分のコントロールを逸脱して放縦に展開する。それらの印象が強い場合に私たちは覚醒時に思い出すのだ。
 霊媒の中には、その能力をロマンティックに見せたり威光を高め強く印象付けたりする目的で、彼らの精神はトランス時やコントロール下において完全に空白になり、「起こったことは何も覚えていない」と言うかもしれない。その発言を文字通りは受け取りにくいのだが、何事にも例外はあるので全否定もしがたい。霊媒がトランス下で起きていることに完全に無意識になるのは「物的霊媒現象」のようなきわめてまれなケースだけというのが私の意見だ。
 実際はその間逆で、コントロール下の霊媒の精神は緊張し、指導霊が精神を用いるのに従いその働きは迅速に、過活動に、過敏になるというのが真実なのだ。通例トランス下の霊媒はいかなる不意の音や刺激に対してもきわめて脆弱になり、反応は一層痛烈になる。大事な点は、霊の影響下でなされたことや言ったことに対し責任はないにせよ、起こっていることは常に分かっているということだ。
 そういうわけなので、初心者は空白の精神は生み出せないので、得ようと執着すべきではない。


ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より C

静寂に入ること




 筆者である私が霊能養成を始めたとき、私は典型的な養成サークルに参加し、そこでは十二名が経験を積んだ霊媒のリーダーシップのもと座った。私は「集中」するために「静寂に入る」よう言われた。そのために私の想念を十字架や花をずっと思い描いたり、長く集中継続する必要性を強調され、長いトンネルをくぐっているところを想像するよう指導されたりした。そうすれば私の精神は空っぽになり、指導霊がコントロールするだろうと言われたのだ。これはさまざまなバリエーションはあるものの、その当時から今日に至るまで多くの霊能養成サークルで初心者の定番のやりかたとなっている。
 これまでの経験から、今ではこの基礎トレーニングはもっとずっと改良する余地があることがわかった。いかなるたぐいのものであれ、集中という行為で私の精神は自らの思念に強く独占され、霊的通信の流入は妨げられたのだ。
 この「集中」という言葉は養成中頻繁に使用されるが、誤った観念を伝える良くない用語である。より好ましい指導は思念の発生を「放棄」させることだと思う。
 確かに美しいシンボルを黙想することは瞑想の一方法であり、それは実際の発達ではないにせよ、「鏡」をクリアにするための肉体的意識の活動放棄へのプロローグとして精神がリラックスするのを助け、さらには指導霊がやって来る前段階をアシストする。
 今となってははるか昔の当時、私はアドバイスを探し求めた。どうやって心の静寂に入るのか? どうやって精神を空白にするのだろう? だが私の疑問に対するなにかしらの答えを与える人はなく、それを記した書物も見つからなかった。静寂に入るための方法を示す万人向けのあるお決まりのアドバイスがあるかは疑わしい。個別の性格や気質に合わせるための調整を要する大変個人的なものだからだ。それはリラックスして瞑想する能力から生じる繊細な状態なのである。後の「初期の発達」の項で、どうすればこれが得られるかの方法をいくつか示す。



2017年05月21日

ハリー・エドワーズ 『霊能養成の手引き』より B

精神の鏡



 初期の段階では初心者は意識がどのように働くかを理解することが不可欠である。これは意識を鏡とみなすことにより単純に説明することができる。この鏡にはあらゆる物質レベルの思考、感覚、痛み、そして五感から起こる経験が投影されている。生きている間その鏡はある印象、心像、記憶からの想起等あれやこれやから決して自由になることがない。人が「見た」とか「聞いた」とき、それは目や耳が見聞きするのではない。それらの器官は波長の放射や刺激を受容し、神経組織を通して脳に伝えられ、そこで意識の鏡に投影される認識できる経験として「翻訳」されるのだ。聞くという行為において音刺激は、言葉や理解している意味へどう解釈するかという知識の力により、その意味するものが知的な理解へと変わる。
 「精神の鏡」という表現は本項を通して頻繁に用いられるので、読者はその働きを明確に理解することが重要である。
 私たちは通常の精神を通した肉体的知覚に加え、霊的精神を有している。これは霊的始原からの心像や経験、印象の受け取りに関わっている。精神の鏡は物的経験によって占められていないときに、それら霊的経験を受け取れるのだ。
 意識はまったく別の思念の印象を同時に保持することができない。それゆえ霊能養成中の霊媒は精神の鏡から物的思念をクリーンにするやり方を学び、霊の思念と印象を受け取れるようにする必要があるのだ。物的対象についての思念はその鏡に映像のように描写される。たとえばあなたが目を閉じて鉛筆のようなありふれた物体を思い浮かべたとすれば、それは本人が抱いているような性質を持った映像として鏡に投影される。仮にその鉛筆はシャープペンシルだと修正をうけたならば、その映像は普通の木製のものから銀色の自動送りのものへと変わる。もしその人がシャープペンシルがどのような形のものか知らなかったなら、彼は鏡にいかなる映像も映すことはできない。このようにしてもし指導霊が鉛筆という想念を伝えようとすれば、その鏡はある特徴を持った鉛筆の像を映し出すのだ。
 指導霊が「母親」という思念を伝える場合が他の例になるかもしれない。鏡は思い出したり描写されたりした一般的な母親像のうち、その人が自然に思い浮かべるものを映し出すのだ。この点については霊視を考える際に詳細に取り扱う。当面の目的は通信霊から「見たり」「聞いたり」する方法の概略を述べることである。
 このように私たちは肉体的精神が霊的精神と密接な調和をとって働くこと、そして共に意識の鏡という共通の出会いの場を持っていることを認める。
 同様のプロセスはインスピレーション談話、入神談話にも当てはまる。その場合指導霊は一連の思念を霊的精神を通して鏡面上に伝達し、そこで霊媒の使用言語や知識に従ってその思念を表現するため言語に置き換えられる。もし彼が語彙が豊富ならば、霊からの思念は語彙の貧弱な者よりうまく表現される。霊媒の精神は素養があるほど霊能の表現は良いものとなる。
 したがって初心者への初期の指導としては、指導霊からの思念の印象を受け取るわざを、調和・親和性を得る能力を伸ばすことによって磨くことであり、その方法は以降の項において述べる。


広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。